それが、まんじ。

“それが、だいじ”なのではなく。manjiman brothers bandの個人的な見解。

先祖を敬うことの重要性を知る。

4歳のときに、3つ上の兄と庭で焚き火をしていて、

風が強い日でした。右足のサロペットジーンズの裾に火の粉が飛び移り、

煙突の仕組みで内側に火が瞬く間に入ってきて、

右足がデロデロになってしまった。

びっくりして何もできずただただ走り回る自分に、

裸足で母親が飛び出してきて

水道で火を消すも、後のまつりだった。

近所のおばちゃんもついてきて病院にいった。

待合室でもギャーギャー泣いて(この記憶は鮮明!)、

恐ろしくて患部を直視することはできなかった。

 

それから抗生剤を1年近く飲み続けました。

35年前くらいの抗生剤。ケミカルな青色と黄色の2種類の抗生剤。

なんか、ザ・アメリカンって感じで(笑

爪は全部剥がれるわ、何もしてなくても鼻血が出るわで、

今思うとぞっとする。

2年保育なので年中入園だった入園式の写真は、どれも右足がパンパン。

包帯を巻かれた上に強引にハイソックスを履いて、満面の笑顔。

 

結局、やけどの痕は大きく残り、ちょうど弁慶のところに

こぶし大くらいの痕が今もくっきり残っている。

痕は残ったものの幸いだったのは、特に薬の強い後遺症もないし、

走ったりボールを蹴ったりしても問題ないし、

からかわれたりいぢめらることもなかった。

それでも火傷の痕を軽減するクリームを母は毎晩塗り続け、目に涙を浮かべて

「ごめんね、ごめんね」というのを今もはっきり覚えています。

もう痛くも痒くもないし、何とも思ってないのだけど、

何しろ子どもだから、痛いのはママじゃないでしょ!などと思ったものでした。

 

小学校も高学年になるころには誰も完全に火傷のことは忘れた。

 

そして時が経ち、僕も親になった。

まもなく3歳になる娘は元気に駆け回っている。

この子が自分と同じ目にあいでもしたらと思うと・・・

考えたくもない。

母があのとき味わった思いが、30数年たってやっと理解できた。

 

家族というのは継がれていくもの。

先祖を敬うというのはそういうことなんだろうな。